酔っ払い

現実的の反語を調べたら「理想的」「空想的」と出てきた。わたしはそういう理想的とか空想的とか仮想的な人だと思う。そうであることのメリット、いいことは一体なんでしょう。わたしは一刻も早く自分のために現実的な人間になりたい。いいことがない。現実的でいれる人がすごい人に見える。自立している人にわたしもなりたい。現実的な人は自分に酔っ払っている人のことを羨んだりするんだろうか。そうはなれない理由があるから現実の中にしか居れないんだろうか。現実的なひとは、キスしたり手を繋いだりしても現実の中のままなんだろうか。現実の定義。頭の中で考えるだけのことではなく現に実際こうであるという状態・事実。では目を閉じてキスしても、体の中の気持ちに頭は負けないのかな。常に現実のことを忘れない人のあたまはいつもどういうふうに回っているのか知りたい。一時も何にも負けないのかな。何にも勝たないのかな。朝起きて一番はじめには何を考えるのかな。好きな人ができた時には、どういうふうに頭を使うのかな。好きな音楽を聴くときは何を思いながら聴くのかな。その曲は二回繰り返して聴いたりしないのかな。そういうことしつこく何回も聞いたら、そういう人種の人たちは何にも考えていないよと言いそうだな。多分、考えることが少ないんだろうな。なんでそうなのかな。何にも考えないでいないといけない理由があるのかな。逆にわたしはいつでもなんでも考えないといけない理由があるのかな。理由の有無でなく、「現に実際こうである」って状態・事実だからだろうな。

いつでも、なんでも、深くまでわかりたい。現実的にそこに存在してる確かなものだってちゃんとわかりたい。本当のものかちゃんとわからないと不安だから。本当のものなのかわからないと不安だから。なのに、考えるばっかりで自分自身が現実に生きてない。このあたまの使い方を無駄だとは思っていない。けど事実そうなっている。現実のこと考えてるはずなのに。

わたしはいつも脱線する。気の散漫さがわたしの一番の武器。なんだかな。

現実の中にいる自分のあれこれについて、優柔不断で決められないことが以前は多かったけど、わたしの気持ちは割といつもどっちでもいいんだなと最近すぐにわかる。その上で以前よりは、早めに決断できるようになってきた。 決断。 客観的に見ることができないということは、すごく危ないことだ。仮想とか、空想とか、理想とかというものは、危ない。

考えすぎるということは、危ない。

わからないけど。

わかりたい。

全部わかりたいと思うことは、危ないことだろうか。

わかってしまったら、また気持ちが変わる。わかった上でまた思うことがある。きりがない。けど、純度の高いところで、何かを好きになったり、自分を好きになったり、人を好きになりたいの。純度の高いところで。その気持ちの真実味を高く持っていたいの。自分にとって「どれだけ本当なのか」に価値がある。「現実の中に生きる自分」がそのこだわりに負ける。

目を閉じたら、いつも気持ちに負ける。止まらない。

大学一年生の時、周りのお酒たくさん飲む人を見て、なんで?って思ってたけど、いまはわかるな。わたしのは、嫌なこと忘れられて、すぐに眠れるためのお酒じゃないけど、わかるな。

意識の中で苦しむ。無意識に止まることなく考えている。