一日の終わり、一日という範囲の外へはみ出して、次の1日のはじまりへ突入し始めているころの真夜中に、感じているうわついた心の好奇心というのか、浮気心。しかしこれは希望に似て煌めくよう。知らないものへ心が惹かれてゆく、心地いい浮気ごころ、誰しもが知ってる感覚、研ぎ澄まされた直感、知りたいさわりたい もっと近くへ、もっと近くへ。

不思議と、あるきっかけによって一気に気持ちが動く

もうお馴染みの、大昔に手に入れた 飽き切った捨てたも同然の、真隣の存在も、はじめはこんな気持ちで選んだ そのときを思い出すような。きりがない きりがないと言いながら、一生繰り返すであろうことを、毎度毎度心底楽しむのだから、捨てたものではない。

自分がひとからどう見えるかより、自分が周りをどう見るかを考えることのほうが当たり前に重要。

だから、絶対に嫌われたくない好きな人に、気持ちをぶつけて嫌われた方が人生はいい方へ進む。

それよりもさみしいと感じたとき、だれかからの連絡を待つのではなくて、自分ひとりで何か楽しいことを見つけようと行動できて、さみしかったのではなく暇だったもしくは疲れていたのだとそのたびに気が付ける余裕を持てているときの自分を、自立していると評価したい。

ワクチンの副反応でエモモード

しがない夢を追いかけてる。自分で決めた夢。自分のための、些細な、巨額の夢をいま。私こそ、控えめで謙虚な女の子。どんな顔をしてどんな声で言っても皮肉に聞こえてしまうのはわたしの中身、していることが偏っているから。

どんどん道を間違えていくような気持ち。この先のことを考えると怖くなる。ほんとうに自分が決めたこの道を歩いて行っていいのか。自分の基準で生きていく覚悟のようなものが掴めない。考えるだけ無駄なこと。

10代後半のころ私が描いていたあやふやでばかげていた夢は、私らしいといえば私らしいことに、抽象的すぎて実現しなかった。大学に入ってそれがわかった。夢みがちすぎること、理想が高いことの結果、高い学費を親に払わせてしまった。自分にその自覚がなかったこと、少し後悔してる。親にこれを勉強したいと言ったものにろくに手をつけず4年間過ごしたこと。

しかし、自分で決められた事なのだから、自信を持たなくては。わたしが自分で過ごした大学生活のこと振り返ってみるときに、楽しかったと思えること、大切にする。

10代後半の頃、好きだと思った素直な気持ちを、受け入れてもらえないからと、ないものにしようと一生懸命だったわたしは間違っていたけれど、そうしないと耐えられなかった。受け入れてもらえないということを。

わたしはどこに行ったら受け入れられるのか、これからいつか分かりたい。それだけの気持ちで私は京都に来たのだといまわかったよ。私なりに、一生懸命過ごしてこれたよね。

きっと音楽なんてそんなもんだよね。って言って納得していいかわからないけど、そうすることにする。哀れな親不孝のばか娘。

こんな気持ちの時は、映画「人間失格 太宰治と3人の女たち」に出てくる沢尻エリカが演じる静子の台詞「だって野蛮が好きなんだもの」を思い出して、勇気を出す。これでいいのだと少しでも思う様にする。お手本を役で生きてくれた沢尻エリカを思い出す

自己肯定感

最近自己肯定感ぜろ。

 

人と話す時まじで、なにもまちがえないように必死。相手が誰でも。友達でもお客でも。

 

お金と引き換えに自分売ってる。きっとこのバイト辞めてもしばらくはなおらない。だいすきな人に相談したら、職業病だね。ってやさしく言ってくれた。それでしあわせになった。

 

昨日、飲みすぎて一人で号泣。お母さんお父さん助けてって言いながら泣いてた。キモ。泣きながら日記も書いていたけれども今日昼に読んだらドン引き。日々の行いはきちんと目が覚めている時にしよう。

 

最近自分が裸族寄りだということに気がつく。家に帰って来たら真っ先に服を脱ぐ癖があって、いつも下着姿でご飯食べたりしている。

 

少し潔癖症なことも原因かもしれない。

 

最近趣味と余裕がない。

 

毎月身を粉にして働いているからそりゃそうなのかもしれない。余裕を引き換えにお金稼いでいることいつも忘れて、こんなのいやだといつも言ってる。今もそういう具合なのだと今気が付いたので、仕方がないと言うことにする。

 

お金のことで頭がいっぱい。毎月毎週いくら稼いだか目標金額まであといくらか今月は他のことにいくらお金を使えるか。夢のためだけれど、先を見過ぎて結果「今」をおろそかにしているのだとしたら怖い。

 

今を常に生きていなくてはいけないのに。

 

これが俗に言われている安っぽい「大人」かな。私はそんな気がするよ。これも生きる上での通り道なのだ。

 

昨日大森靖子を久しぶりにいいなと思った。hayatochiri。高校生の時の感覚が戻るようであった。

戻りたいけれど戻れはしない。新しいものを見て新しいものに触れて、新しくなっていくことが自然なことだ。戻らないものをいつまでも考えることは悪くはないけれど、その時を生きようという気持ちが薄れる。

とても良い気持ちで死にたくなってしまう。

 

死にたいと常に思っていた方が強く生きられたりする時もある。

 

煙草の本数ばかり増える。

 

どれだけ気持ちが落ちてても薬さえ飲めればうごけるようになる。

 

音楽で薬でうごく、私のからだ。問題なく生きていられてる。なくなったら、うごけないかな。

 

大人はみんな、こんな気持ちいつも味わって来たのかな。

 

 

泣きたいなら

わたしの大きくを作った秋に、出会った人に会いに行くことになった。もうすべて過ぎてしまったけれど決して消えてはいない時期をいくつも巡って、またもうじき同じ季節が来る。その人のことをたまに思い出すとわたしはいつも気持ちが明るくなった。このひとを見つけられて良かったとあの時思ったの。自分のひなたを生きているひとだと私は思っているの。

わたしはどんなかな。いつもまわりに目を奪われているかな。それでも自分で選んだまわりの景色を眺めてきた。行きたいところにたくさん行って、会いたい人に会いたいと言って。

3年ぶりくらいに会う。ついこのあいだそのひとと電話口で話している自分が、会わないあいだに変わったと思った。自分で好きな自分に変えたのだと気づいた。けれどこのひとと出会った秋、好きだった自分らしくはなかった。

別に重たい話ではない

人に何かを望んだり頼ったりできない性分の人間は、幸せになれないと思ったけど、全くそんなことはない。誰かと幸せになるかたちではなくて、ひとりで幸せになるかたちを選んだらいい。私はひとりでいることを既にもう選んだのに、同じこと繰り返し言ってそのたびに思い出さないとすっかり忘れてしまってる。選んでから、それを実際行うことに慣れるには時間がかかるんだね。右も左もわからないことばかりで、子どもみたいにぐずぐずする。実際子どもではないので、可能な範囲内でぐずぐずする。

最近ボーッとする時間が増えた。そのおかげで前よりはいろんなバランスが取れていると思う。人間はなにかしら偏ったら支障が出ると思う。偏った分リスクと一緒に得るものもきっとあるけど。

話すのがどんなにじょうずになって人に好かれても、本人がだれにも興味を持てなかったら。誰のことにも関心が湧かないのに人付き合いじょうずで必要ないものがまわりに溢れたら、その上だれにも頼れずにだれにも何も望めない性格だったら、それが私のこの先に起きたら、このままの自分であれば死ぬと思う。だからこのままでいること、絶対に回避する。

どうしてほしいかと聞かれたとき、本心の通りに「なにも無い」とは言えないと思った時、どきどきしてしまう。