本当には優しくない

どこまでを人のためとするのか

その相手?それともその度合い?

何もしていない時間

いらない時間から捨てていく

そうしたらいつか人のことも選んでいけるようになる

頭にあるいろんなものがぐるぐる

ハッキリとしなくていろんな形の線がぼやけて混ざる

どれがなに

何もしてない時間、自分の形の線もぼやけて何かとの境目がなくなりそう

なぜ

方法論

 

不必要な物が増えると部屋の空気がぼんやりする。ほんとうにいるものがよく見えなくなる。なんとなく空間が膨張したように感じる。散らかる。いらないものは早めに手放す。

何も欲しいものがない場合は、消去法で選択肢を狭めて比較的欲しいものを選んでいく。何もやりたいことがなければ、逆にやりたくないことを決める。それ以外のなにかで、ひとつ気が向いたものを試しに選んでみる。やってみて何か違うなとか、もういいなと思ったら、他に行ってみてもいい。

生きてく目的を見つけるための方法論。

完璧主義よりも最善主義。

私は諦めないぞ!

自分は何かを嫌いになったり「いやだな」と思う基準がハッキリとあるなと思う。

それは、中途半端なものと、諦めているひと。これをひと目でも見ちゃうと興ざめしてしまう。

その逆であるもののこたえを、今の私の中で定義してみた。純粋であること、貫いていること、自分を疑わないこと。この3つかなと思った。

 

撫子さんの素

自分が生きてて何かやりたいことや生活の中での欲が少ないというのはわかった。これから先どうしたらいいかわからない。みこは、健康的に生きていたいけれど、せっかくの人生なら、普通のがつまらないなら、不健康に偏ってひどいことして面白がって過ごしていたい。今の環境は一人できちんと行動を起こさないとなにも生まれないところに身をおいているから、なにも生まれていない。生まれてくの変なお金くらい。周りの世界の感じ取り方を少し変えたくらい。どこまでするのが商売?ほんとうはわたしどうなりたかった?わたしはだれともなににもなりたくない。じゃあわたしはどうなりたいの?死ぬとき後悔しないように生きてたい。そのためにはどう生きたらいい?目的というものをはっきりとわかりたい。わかったらしゃんと背筋伸ばしてそちらへ向かいたい。浮き沈み激しい。けど根性はある。なにをさせてあげたら、わたしは現実的で健康的な幸せの中にいられる?不健康でひどくて偏って研ぎ澄まされた遊びは、せっかくならって言って選んだりしてるけど、それだとわたし死ぬまでこう。それでもいいけど。結局どうになりたいと思わないから、どうでも構わない。「どうでも構わないのよ」って言ってもらいたくて子供ができたら絶対にそう言って育てようと考えていたけど、それは望みが生まれないことだ。そして無責任。けど、過保護より無責任な人に育てられた人のこと昔から羨ましかったの。全部自分で決めないといけない、全部自分で決められるから。好きなものなんでも。いまのわたしは、自分に対して無責任にそうだから、決めてくれるのが自分じゃなくて他人とか環境になっている。相手との関係性も向こうがどうにかしてくれている。自分で決められてない。まだなにもしてないけれど。けどNOの意思表示は少しできるようになって来た。決められないなら、嫌なことからを消去法で消していけばいいのよ。残った人たちや環境が、そしたらわたしのこと決めてくれるように促してくれるんだから。なるようになる。不安だからこの言葉繰り返してる。

怖い。初めてのことするのは怖い。けど、現状を変えるための勇気を持ちたいの。一人でしなくちゃいけないけれど、みんなそれは同じだから。コンビニで何買うのと同じなの。みこはそれで昨日、水と、梅茎わかめと、檸檬堂買ったからね。ただそれだけのことなのよ。怖いし、わたしはしばらく周りの人に導いてもらうことにする。それからどうしたいのか考える。

小説完成させたいな。タトゥーも入れられたらずっとかっこいいなあ。大泉洋が主演の今上映中の映画も見に行きたいし、気が向いたら、ほうれん草のおひたしを上手に作れるように練習したい。

最近距離感を取ることに集中しすぎて友達のあたたかさをちゃんと味わえない。買いたくないのに店員さんが買って欲しいだろうと思って買ったり、いっしょにいたくないのに気に入られると安心するからいっしょにいてたりとかも、最近また一段とそんなのばっかり。抜け殻みたいになりたくない。

ごめんなさい

もうやめた方がいいのかもしれない。結論が出ないのに頭を使いすぎるだけ。   科の先生と話してる時、コイツは私を健康な人間に導くためにいろいろを仕事でやってんだけど、私はもっと不健康になりたいですと言いたくなった。健康とも不健康とも言えん中途半端な状態で、ただつまらん。じぶんが生きるためにいろんなことをこなさなくてはいけないのだけど、もともと自分自身のことがどうでもよくいつも後回しにするので、仕事をしてひとりで暮らすことが想像できない。それは、今私が   に夢を見てるからで、そいつのことをやめれば、きっとすべてうまくいく。夢を見ることさえ辞めてしまえば。けどもうちょっと一緒にいてみたい…。けど今、もうちょっと、では、なくなっている。それで、今日はひとりで楽しく過ごせなかった。つまらなかった。些細なことが大問題に思えて仕方がない。頭で状態を認識する前に、頭がなにか対策をし始める。自己防衛のために何かにこだわり始める。

ではわたしは何を辞めたらいいと思ってそう言葉にするのだ?他人に対して不誠実になるのは何も感じないのに自分に対して不誠実だとイライラしてくる。

わからないままイエスって言ったのにわたしの人生って何?

活動源を掻きたてるものがひとりで過ごしていると無くなってくる。ひとりで過ごしていられない。ひとりでしかいきていけない。わたしのあたまはなにかといつも極端であられる。たったひとりだけ、じぶんに依存したい。どうしたらそうなれるかしら。昔からこんな頭なので、文章に書き貯めているものがいろんな形でいろんな場所にあって、高校生の時のものとかを読んでいたら、とっくにできるようになったことを由々しき事態と捉えてひたすらにいつまでも書き倒していて、安心した。その頃と今は変わっていて、これを書いた人はだれ?

けどいまは辞めたくないの。いっしょにいたいって気持ちだけでいたいの。けど、一緒にいて楽しくないの。勝手に話を進めないでほしいの。ハッキリとしたいことを伝えられないってわかっていて、あなたと合わないとこがあるってわかるのが怖くて分からないふりしてるの

私は自分の気持ちの状態をはっきり認識することに徹して、グズグズしないで、問題解決をして。

家族のこと

わたしが2年生の夏休みにアメリカに1ヶ月留学したとき、関西の空港に見送りに来てくれた父が、わたしが生まれた頃から撮り続けてた写真を入れたアルバムを4冊くらいわたしてくれた。わたしが赤ちゃんだった頃の写真から高校生になった時までの写真まで。たくさん現像したのをアルバムに入れてくれたのを渡してくれた。わたしはそれを日本に帰ってきてから自分の写ってるやつだけ選んで他の写真はほとんど燃やして捨ててしまった。ほんとうにごくたまに見たりするけど、お父さんは昔から写真をしつこいくらい撮る人で、お母さんも私もあきれてたくらいだったんだけど、残してた写真に少しだけ写ってる父の姿、ぜんぶ幸せそうな顔して写ってる。私はいまそれをまた見てるんだけど、それみるたびにかなしくてたまらなくなる。

酔っ払い

現実的の反語を調べたら「理想的」「空想的」と出てきた。わたしはそういう理想的とか空想的とか仮想的な人だと思う。そうであることのメリット、いいことは一体なんでしょう。わたしは一刻も早く自分のために現実的な人間になりたい。いいことがない。現実的でいれる人がすごい人に見える。自立している人にわたしもなりたい。現実的な人は自分に酔っ払っている人のことを羨んだりするんだろうか。そうはなれない理由があるから現実の中にしか居れないんだろうか。現実的なひとは、キスしたり手を繋いだりしても現実の中のままなんだろうか。現実の定義。頭の中で考えるだけのことではなく現に実際こうであるという状態・事実。では目を閉じてキスしても、体の中の気持ちに頭は負けないのかな。常に現実のことを忘れない人のあたまはいつもどういうふうに回っているのか知りたい。一時も何にも負けないのかな。何にも勝たないのかな。朝起きて一番はじめには何を考えるのかな。好きな人ができた時には、どういうふうに頭を使うのかな。好きな音楽を聴くときは何を思いながら聴くのかな。その曲は二回繰り返して聴いたりしないのかな。そういうことしつこく何回も聞いたら、そういう人種の人たちは何にも考えていないよと言いそうだな。多分、考えることが少ないんだろうな。なんでそうなのかな。何にも考えないでいないといけない理由があるのかな。逆にわたしはいつでもなんでも考えないといけない理由があるのかな。理由の有無でなく、「現に実際こうである」って状態・事実だからだろうな。

いつでも、なんでも、深くまでわかりたい。現実的にそこに存在してる確かなものだってちゃんとわかりたい。本当のものかちゃんとわからないと不安だから。本当のものなのかわからないと不安だから。なのに、考えるばっかりで自分自身が現実に生きてない。このあたまの使い方を無駄だとは思っていない。けど事実そうなっている。現実のこと考えてるはずなのに。

わたしはいつも脱線する。気の散漫さがわたしの一番の武器。なんだかな。

現実の中にいる自分のあれこれについて、優柔不断で決められないことが以前は多かったけど、わたしの気持ちは割といつもどっちでもいいんだなと最近すぐにわかる。その上で以前よりは、早めに決断できるようになってきた。 決断。 客観的に見ることができないということは、すごく危ないことだ。仮想とか、空想とか、理想とかというものは、危ない。

考えすぎるということは、危ない。

わからないけど。

わかりたい。

全部わかりたいと思うことは、危ないことだろうか。

わかってしまったら、また気持ちが変わる。わかった上でまた思うことがある。きりがない。けど、純度の高いところで、何かを好きになったり、自分を好きになったり、人を好きになりたいの。純度の高いところで。その気持ちの真実味を高く持っていたいの。自分にとって「どれだけ本当なのか」に価値がある。「現実の中に生きる自分」がそのこだわりに負ける。

目を閉じたら、いつも気持ちに負ける。止まらない。

大学一年生の時、周りのお酒たくさん飲む人を見て、なんで?って思ってたけど、いまはわかるな。わたしのは、嫌なこと忘れられて、すぐに眠れるためのお酒じゃないけど、わかるな。

意識の中で苦しむ。無意識に止まることなく考えている。